「祖父母の苦しみ。戦争とは」~終戦から80年に寄せて~
私の祖父は、戦争前、日本人でただ一人、世界一大きい海外船舶に乗船しており、機関長と副船長を兼務していました。
ところが、開戦後は、召集により海軍副司令官となってしまいました。
それは、どういう意味を持つかと言うと、今まで同僚だった方々を殺す指揮を取ると言うことです。
終戦まで祖父は、その立場から退くことができませんでした。
終戦で祖父は戦犯となり、財産は全て没収。
戦犯な為、見つかったら殺されてしまいます。
その為、着の身着のままで、満州から引き上げてきました。
その時、男4人の子どもたちがいましたが、4人目は産まれたばかりの新生児でした。
引揚げ船の積み荷に隠れて、日本までの船旅をしたそうです。
新生児の叔父が泣いて見つからないよう、命懸けだったと聞いています。
九州の門司港に着岸し、愛知県刈谷市まで、知り合いを頼って行き、そこで、祖父は20年間、溶接工として働いていました。
船乗りとして復帰の要請は、常にあったのだそうです。
でも、祖父は溶接工として働く道を選びました。
凄まじい罪悪感を、抱えていたのだろうと推測します。
それは、想像を絶するものであったのだろうと。
人として、全てを認知してしまったら、生きていることが不可能なほどの事であったのだろうと、推察します。
私なら耐えられずに、死を選んでいたかもしれません。
ただ、祖父には家族がおりましたから、家族を養わなければなりませんでした。
戦後は、馬鈴薯一個を6人で分けて食べるしかなかったほど、貧しかったとのことです。
どれ程につらい日々であったのか、欠片も、私にはわかり得ません。
その事実を、祖父の手記や、父. 叔父たちから、聴いて知りました。
祖父は、20年後、59歳の時に、日本鋼菅 (当時、日本最大の船会社 )の要請に応じ、水先案内人として、航海を再開しましたが、その航海中、パナマ運河にて脳梗塞で倒れ、退職となりました。
私の推測では、重篤なPTSD (トラウマによる重篤な症状) により、脳梗塞が引き起こされたのではないかと思っています。
60歳となった祖父に、ちょうど産まれたばかりだった私は、6歳まで育ててもらいました。
1歳の時に、結核病棟に入院する前の祖母と、庭にゴザを敷いて、花輪を作ったりして遊んでいたのを、鮮明に覚えています。
祖母は、私にとって、慈愛そのものでした。
今でも鮮明に、当時の事を覚えています。
それほどに、祖母の存在も、私にとっては大切な存在でした。
祖母は、終戦後の貧しい生活や、祖父を支える苦労などにより、結核を罹患し、私が3歳頃から、結核病棟に入院していました。
毎日、祖父に手を引かれて、祖母のお見舞いに行きました。
祖父の手の温もりは、体が覚えています。
祖父と四六時中、一緒にいました。
祖父母の慈愛により、私な育まれました。
私が5歳の時、祖母が結核で亡くなりました。
その時、私は、夢でうなされ、阿鼻叫喚で目覚め、泣いて暴れ、それを誰も止めることはできませんでした。
65年の人生で、最も恐ろしい夢でした。
夢の内容は以下です。
辺り一面、灰色で何も見えない。
底無し沼に若い女性が沈んでいく。
底無し沼から逃れようと必死であるが、静かにゆっくりと沈んでいくのを、止めることはできない。
最後に、片手だけが底無し沼から出て、痙攣している。
その手も。やがて沈んでいき、何も見えなくなった。
後には、波紋だけが残った。
その後、私は家中の壁に、女の子、目覚まし時計、赤十字のマークを、描き続けました。
それを、家族全員、誰も止めませんでした。
私の危機状態を、わかっていたからだと思います。
その後、後を追うように、祖父も亡くなりました。
私が6歳の時でした。
どれ程に祖父は、罪悪感を抱え、苦しんだことでしょう。
苦しみそのものを、生きたと思います。
葬儀の様子は、今も鮮明に覚えています。
祖父母の晩年も、鮮明に覚えています。
母の伯父の病院に、夫婦で同じ病室に入院していました。
母が祖父母の看病をする為に、私は保育園に預けられました。
私の世界は灰色になりました。
何をしても楽しくなくなりました。
昼寝もできなくなり、保育士さんに突っかかってばかりいました。
絵本を楽しそうに読んでいる子を、別の世界にいる子のように感じていました。
おやつも食べたくなくなりました。
弟は幼すぎて、保育園に預けることができず、母に連れられて病院に通っていました。
その病院は、母の伯父が院長を勤める病院でしたので、弟は、病院に併設されている伯父宅で、
テレビを観させられて一人で過ごしていたそうです。
弟は、今でも、その地に行くと、気分が落ち込み。とても辛くなるのだそうです。
理由は自分ではわからないとのこと。
私より2歳半年下の彼は、物心つく前でしたから、記憶がないのでしょう。
戦争は、このように、恐ろしい爪痕を、後生に残します。
福島に来て、たくさんの方々にお会いしていく中で、
たくさんの方々が、孫の世代であったりしているにも関わらず、
戦争に駆り出された祖父のトラウマの影響を色濃く受け、
それが引き金になって、様々な精神病理を発症されているのを知りました。
福島に来て31年になりますが、お話を伺っていく内に、そこにたどり着く方の多さに、驚いています。
終戦から80年。
しかし、未だ、その影響は、色濃く残っています。
今も、世界中で、戦争や内線などにより、数えきれない程の方々が苦しみ、亡くなられています。
日々、ニュースで取り上げられていますが、「歴史は繰り返す」の言葉通り、同じ事を、
現代の科学技術が加わった事で、更に、甚大な被災をもたらしている現実があります。
人間でいる限り、このような無益としか私には思えない事を、繰り返して行くのでしようか。
私は、祖父母の、命 . 存在 魂 から、身体感覚を通して、戦争体験を、深く体感してきたと思います。
このような苦しみを繰り返してはならない。
人間の愚かさに、醜さに、日々、苦悶します。
でも、私もその人間の一人なのです。
同じ人として、少しでも何かできないか、日々、自分に問うています。
人が人を苦しめないように、殺めないようになってほしい。
そう痛切に、祈り、願うしかできない自分に歯がゆさを感じながら。
命は、尊いです。
写真 能登半島珠洲市での被災支援時の自衛隊車両


