大自然と命なるもの

ある方が苦しんでおられました。

その方は、大学でも、大学院でも、大地における放射能汚染の

生き物に与える影響を調べ、論文にされてきた方でした。

下記に述べさせていただきますが、

私と同じ、大地が抉られ傷つき果てて行くのが、耐えがたい方でした。

その方をお会いして、どうしても書きたくなりました。

とても長い文章ですが、お読みいただければ幸いです。

その方は、現実生活と、その方にとって上記で語られた、

何より大切に考えたいものごとが違いすぎると、

のたうち回っておられました。

福島は、どなたも言葉には出しませんが、

放射能汚染を恐れておられるのです。

震災直後からそうでした。

それは、あまりにも、存在そのもの・いのちそのものの、

根源に触れるセンシティブな事実であるからだと思います。

私どもは、公立学校共済組合の委託団体の一つですが、

そこには「原発事故の相談」の欄が今もあり、

「有」と提出される方が、今現在もおられます。

10月号 福島市政だよりにも、「天然茸を食べないでください」との通知がありました。

原発事故が発生する前、福島市と猪苗代を結ぶ国道115号線沿いには四季折々、

今頃には天然茸、春には山菜や筍等々のお店が立ち並ぶところがありました。

しかし、今は、そば店などに変わったり、閉店したりしています。

私は、秋は原木椎茸や天然茸、春は山菜や筍が大好きで、よく購入していました。

でも今は、福島産は「菌床椎茸」しかお店では扱っていません。筍は他県産です。

天然木苺も、幼い頃から、野山を駆け回っては積んでは食べ、

籠に入れてジャム作りをするのが大好きでした。

その気持ちは今現在も変わらず、

震災前は、自宅の庭にブラックベリーやラズベリーをたくさん植え、

摘んでは大鍋で煮て、友人知人に配って歩くのが楽しみでした。

でも、全て抜かざるを得ず、今も、栽培は怖くてできません。

自宅の裏庭には、夏になると茗荷も花芽がツクツク生えてきます。

震災後、今年、初めて、堂々と収穫し、近所の友人にお裾分けすることができました。

でも、未だ、収穫時、友人にお裾分けする時に、こころがチクッと痛むのです。

汚染された土地の中で、如何に普通に生きて行くのか、

心の奥底では怯えながら、でも、決して触れてはいけない、

存在そのものを脅かす、“恐ろしいものそのもの”だからこそ、

誰にも悟られないよう、普通に生活しているのだと思います。

環境破壊・温暖化により、世界中が今、天変地異が起きているかのような、

恐ろしい環境変化が起きてきて、「温暖化」と言う言葉を聞かない日はありません。

でも、愚かな人間たちは争いを止めません。

たぶん、死が本当に目の当たりになったとしても、

“業”の深い人間たちは同じ事を繰り返していくのではないかと、私は思っています。

「歴史は繰り返す」との言葉があるように。

でも、私は諦めたくないのです。

一つの命を見殺しにしない為に、

いのち が いのち として存在してほしいと祈り願う、

その為に。命懸けになっても全然足りないのです。

どれほどに命懸けになっても、

たった一つのいのちを救う事すら、

人であることの非力さを痛感します。

私もたった一つの小さな、儚い いのち でしかないからです。

ニュースを観ると、哀しくなって、

「人間界は滅べばいいのに…。そうしたら、地球の生態系が復活し、

いのちの循環の輪が蘇るのに」とすら思う事がしょっちゅうあります。

小学校低学年の時から、そう考えていました。

地球を守りたくて、地球物理学者になりたい。

地球の土地を全て買って、自然の生態系を守りたい。

そう真剣に考えていました。

その為に、科学雑誌「Nature」「Science」を

子どもなりに理解しようと懸命でした。

その頭がない事に気づいた時の絶望感は、今も忘れません。

小6の時でした。

よちよち歩きを始めた時には、

つるべ井戸に五右衛門風呂、ランプ生活を送り、

道は雨が降ると土がぬかるみになって、

梅雨にはその道全体がミミズだらけになります。

ミミズで足を置く隙間が全くなくなるのです。

地中に、こんなにミミズがいるのかと思い知らされる時でした。

大自然の懐に抱かれて、私は育ちました。

大自然は、私の “いのちそのもの” でした。

小川の清らかなせせらぎ。

春には小川でセリを積み、

蛙の卵をバケツ一杯に獲って来ては、水槽で飼って蛙にまで育て、

夏になるとタニシを捕まえて食べられないかと真剣に考えました。

日本ザリガニは手でつまみ上げると、ハサミを振りかざして威嚇してくるので、

ハサミに挟まれないようにおっかなびっくりでした。

そして、全身水に浸かりながら、農業用の大きなザルに、

一度に何十匹ものメダカを捕まえては、

キラキラと飛び跳ねるその生命力にワクワクしていました。

田んぼでは、春に満開になると、

見渡す限り一面ピンク色に染まるレンゲ畑に大変身。

その花の絨毯に寝転び、陽の光を浴びてポカポカするのがとても心地よかったです。

つつじの蜜は甘くて「だからミツバチは蜜を吸いに来るのか」と納得していました。

そこは、「つつじが原」と命名した、おままごとのダイニングの場でした。

私たち悪ガキは、山中を

「この森は薄暗くて木々の間から陽の光が少ししか漏れてこないから寝室ね」等と命名し、

子どもの足で行きつく所すべてを、

おままごとの家代わりにして遊んでいました。

秋のススキの野原では、ススキを縛って

インディアンのティーピーもどきを作りました。

丸一日かかって、夕暮れ時にやっと出来上がったティーピーには、

子どもが一人か二人入るのがやっとでしたが、

それでも嬉しくて、今も目に焼き付いています。

キッチンは、太い松の枝ぶりが子どもが座るのにちょうどよく、

二人くらいで向かい合ってまたぐように座り、

バランスを取りながらおままごとセットを枝の上に置いて、

おままごとをしていました。

そこは、我が家の真ん前にある木で、

小学2年生の時に、「ドーン!!!」と言う衝撃と共に雷が落ち、

バリバリと木が真っ二つに裂け、黒焦げになった木でもありました。

ちょうどその頃、台風で、いつもは清らかな小川のせせらぎが溢れかえり、

我が家の床下をゴウゴウと泥水が流れて行く床下浸水も体験しました。

これらの体験は、子ども心に、大自然の驚異を目の当たりにする思いでした。

しかし、大自然の猛威は、今、思い返してみても、脅威ではありましたし、

家が横倒しに転がっていたりと凄まじいものでしたが、

命の危機を感じなかったからでしょうか。

恐ろしさでトラウマになった思い出にはなりませんでした。

木の葉がカサカサこすれ合う音。

池の真ん中にある小さな島では、

秋も深まりカサコソ言っていた葉が落ちると、

藤づるに捕まって、ターザンごっこをしました。

そこに行くまでには、腰くらいまで

泥だらけにならないと行けませんでしたが、

それがめちゃめちゃ楽しくて、

夕方、家に帰ると、まずは全身裸になって、

泥だらけの服を洗う所から自分でしました。

冬には森の中に入り、弟とクリスマスツリーにする木を

のこぎりで切って、わっせわっせと運びました。

その木に、祖母が手作りしてくれた

フェルトの可愛らしいオーナメントや

キラキラした赤、黄、青、緑などの、

可愛いキャンディを紐につるし、

オーナメント代わりに飾って、

クリスマスが終わると、一つ一つ、楽しみに食べました。

冬の朝日を浴びて霜がキラキラと銀色に光る草原。

木の葉が落ちた森は、美しい光に満ちて、

木々の枝が美しく輝き、

銀色の世界が広がっていました。

その森を散策するのが大好きでした。

小学校に入る前だったと思いますが、

大蛇の青大将が雄鶏を丸呑みしている所を、

身動きできずに呑み込まれ尽すまで

観ていた事もありました。

突然、マムシがSの字になり鎌首を持ち上げ、

シャーっと威嚇しながら飛び掛かられたこともありました。

必死で逃げおおせた時は、心底、ホッとしました。

小学1年生の時、街灯も何もない真っ暗な夜7時頃、

草ぼうぼうの道を、竹やぶと土葬のお墓、

火の玉がでるとの噂が絶えなかった、

今にも幽霊が出そうな脇を、

たった独り歩いて、道のどん詰まりの自宅に帰るのは、

ものすごく怖くて、ホラー映画そのものでした。

野犬6匹くらいに取り巻かれた時は、

「動じたらおしまいだ」と咄嗟に思い、

微動だにしないよう、大地にしっかりと足を付け、

不動の姿勢を取りながら、

野犬と静かに目を合わせていたのは、

今でもよく覚えています。

野犬は暫くして静かに去って行きました。

私は名古屋市出身ですが、

昭和35年生まれの私の住む名古屋市は、

市内でも、ライフラインのない

そんな地域もあったのです。

でも、小学生に上がる頃から、

都市開発が本格的になりました。

キラキラした水や木漏れ日。

木登りして渋柿を齧り、

口の中が渋さでとんでもない事態に陥り、

口をすぼめてどうしていいのか

わからず途方に暮れたこと。

リスが食べているんだから

人間も食べられるだろうと、

ドングリを生のまま食べようとしたら、

渋くてにがくて、思わず吐き出したこと。

森の中に赤く光るグミの実。

パクパクつまんでは食べ続けた、

ジューシーで甘酸っぱい真っ赤な木苺。

秋に紫色に甘くなる桑の実。

枝を這うように登り、

木に登って一粒一粒、口に含むと、

独特な香りや味がして、

口や唇まで紫色に染まりました。

木の実、木々や草むらからのぞく、

野うさぎ、タヌキ、キジの親子、山鳥、

青大将やシマヘビ、ヤマカガシ。

ザリガニ、メダカ、ドジョウ、タナゴ、ハヤ、

カブトムシやクワガタ、コガネムシ、アメンボ、蛍、

たくさんの たくさんの、生き物たちがいなくなりました。

緑が失われ、灰いろと大地を削った区画整理された、

不自然な茶色い、むき出しの大地。

当時はわかりませんでしたが、

小学3年になる前頃から、

今思うと、鬱になりました。

大きな病院で脳波も摂ったし、

全身の精密検査もしました。

念のためと、当時 人間にとっては必要ないと

言われていた場所を、切除手術も行いました。

しかし、結局、原因不明。

医師の診断は、「思春期を過ぎたら治るだろう」

とのことでした。

私の世界は、小学3年生には、

すべてが灰色の世界に様変わりしました。

なぜ、世界が灰色になったのか、

なぜ、生きる気力がなくなって、

死んでしまうのではないかと考えたのか、

当時の私は、何もわかりませんでした。

ただ、無気力で、辛く、苦しく、

死んだような感覚しかありませんでした。

私にとって、都市開発は、

いのちが傷つけられ、

いのちが削がれていくこと

そのものだったのだと思います。

自然の懐に抱かれ生かされている。

それが、私の“いのち”そのものの在り様だったから。

私は、宮崎駿さんの「ナウシカ」の映画を観・漫画を読んだ時、

号泣しました。涙があふれ続け、止まりませんでした。

たった一人、それに立ち向かおうとしているナウシカ。

私は、あの物語にふれるにつけ、

今の世界は、身近な所であっても、

ナウシカの世界と同じような惨状に陥っているとしか、

どうしても思えないのです。

私は、ナウシカに自分の姿を重ねているようにも思います。

そして、子ども時代は、「隣のトトロ」や「もののけ姫」に。

私はずっと、こころは独りぼっちでした。

今も、ずっと子ども時代から変わらず、

見えない何かと戦っている気がしています。

福島は自分の生まれ育った土地ではないので、

今のような仲間に出遭うまでは、

ずっと独りぼっちでした。

でも、たった独りであったとしても、

諦めたくなかったのです。

目の前に尊い命があるから。

人だけではなく、どんな小さな、

木の葉一枚であっても、蟻一匹であっても、

それは、尊い “いのちそのもの” なのです。

「宗教と科学の接点」と言う

河合隼雄氏が書かれた名著があります。

河合先生がお話をなさるのを、24歳の私は、

深く心揺さぶられて、いつも、お聴きしてきました。

私の体感と同じことを語られていると。

そして、様々な宗教の総本山などへ

行かせていただいた折に、

仏教・カトリック・プロテスタント・マヤ・ヒンズー等々、

本当に多くの宗教宗派の、僧侶・司祭さまと

お話をさせていただく機会を得ました。

私は、その度に、「全てのものには“いのち”がある。

砂粒一つにも。

この世界は、“大いなるいのちそのもの”

だと感じるのです」と申し上げたところ、

皆さま同じ言葉をおっしゃってくださいました。

「康代は間違っていない」と。

肉体は滅びるかもしれない。

“いのち”は肉体から

離れていくかもしれないけれど、

光に、世界に、宇宙に、

“いのちそのもの”に戻って行くのだと思うのです。

肉体を離れる痛み・悼み・哀しみ・

苦しみ・その重く暗い絶望、等々、

筆舌に尽くしがたく、

言葉を失うものだと思います。

実際、私は原発事故を体験し、

避難して来られた方々と

触れさせていただく機会を与えられた時、

「共感したら、私の存在を、

命を保つことは、不可能になる」と痛感し、

恐怖などと言う言葉では言い尽くせない

根源的恐怖そのものに囚われました。

あの体験は一生、忘れえないと思います。

死は、あまりにも恐ろしい。

でも、形のない“いのち”。

“ひかりそのもの”と喩えても良いかもしれない世界。

もしかしたら宇宙に満ちている、区切ることのない

“命の原点のようなもの”があるのではないか。

壮大すぎる気もしますが、そう感じる私がいるのです。

それをスピリチュアルと呼ぶ人もいるのかもしれません。

でも、私は違うと思っています。

物理学の世界を学べば学ぶほど、科学も心理学も、

同じ法則に則っているように感じます。

それを、深層心理学の権威であられるユングも、

日本の深層心理学や数学者であられた河合隼雄氏も、

私が語らせていただいた宗教者の皆さまも、

はたまた、後年、ノーベル物理学賞を博された、

名古屋大学の物理学研究所に入りたくて、

signとcosineのみをケアレスミスし、

不合格となった私の夫の真一も、

同じ事を言うのです。

“いのち”、尊いけれど簡単に失われる、

奇跡のような存在。

でも、目に見えず、何ものか、

今もよくわからないもの。

だけど、生き物、もしかしたら、

すべてに与えられたもの。

今回、語らせていただいたことは、

真実なのかどうかはわかりません。

ただ、子どもの頃から感じていたことを、

大人になって認識した、

私にとって、生涯変わることはないだろう、

普遍的感覚です。いのちは、尊いです。