「父の姿」
私の父は、戦争前の中国、大連で産まれました。
祖母は妊娠3ヶ月の時に、風疹に罹患してしまい、父を産むことが恐怖そのものだったと聞いています。
産まれてきた時、直ぐに全身がアトピー性皮膚炎に被われ、痩せこけて、見るも無惨な姿だったとのこと。
医師からは「余命1週間もないだろう」と宣告されました。
何とか生き延びましたが、小学校も虚弱にて普通学級に行くことができず、特別支援学級に通っていました。
12歳時に終戦を迎え、命からがら、日本に帰国しましたが、結核に罹患。
大学は中退し、片肺とその前にある肋骨の切除手術を受け、就労しました。
その際に、「20歳までは生きられないだろう」との余命宣告もされたそうです。
そんな父を、祖母は、罪悪感から、愛することができませんでした。
再度、奇跡的に生き延びましたが、私が産まれた時も、命が危ないことがあり、
命を繋いでいくことが、父にはとても大変だったことを、私は観て育ちました。
父は、トヨタ系の会社で働いていましたが、会社で管理職になってからも、
大型バス2種免許を取得し、片道2時間をかけて、中卒で就労した若者の送迎を行い、
休日や夜間には、家に連れてきて、家族皆と一緒に食事をしたりしていました。
取締役になってからも、自ら溶接などの現場作業を行い、社員教育を行っていたそうです。
また、どんな態度や立場の方に対しても、丁寧で、穏やかで、その方の立場になって接し、
部下の皆さまからも、とても信頼され、慕われていました。
父自身が、母親から愛されず、さらに、自らの命の淵に常におり、苦しみもがいて、生きてきたこと。
自身のような苦しみを、誰にも負わせたくないという想いが、その根底にはあったのではないかと思います。
しかし、その苦労は半端なく、結核は完治していましたが、30歳代の時には肝臓が病魔に襲われ、
40代では肝硬変になり、私が16歳の時に食道静脈瘤破裂となり、バケツ一杯分の血を吐き、奇跡的に命を取り留めたこともありました。
しかし、その後も、父の働く姿勢は変わらず、53歳で命を引き取るまで、その姿勢は崩れませんでした。
父が入院している時に、私が河合隼雄氏の「宗教と科学の接点」や、「影の現象学」「ゲト戦記」などの本を届けると、嬉しそうに読んでいました。
私には一言も言いませんでしたが、「康代が、自分の本当にやりたかったことをやってくれて本望だ。康代が自分の魂を継いでくれるのが何より嬉しく、これで自分は死んでいくことができる」と、語っていたそうです。
父の死後、様々な方々からお聞きしました。
今の私の生きる模範、導き手となっているのは、父です。
父が常に、私の命に寄り添ってくれているのを感じます。
それが、真実かどうかの問題ではなく、私がそう思っていると言うことが、何より大切なことだと思っています。
何か、苦しいこと、わからないことがあると、心の中の父に問いかけます。
そうやって生きてきました。
でも、そういう存在のおられない方々が、世の中にはたくさんいらっしゃいます。
私がお会いしている方々は、ほとんどがそうです。
その方々に申し上げるのは、「私をその代わりにしてもらえませんか?」です。
そうやって、たくさんの方々が、立ち直り、前向きに生きようと努力される姿を、共有させて頂いて参りました。
私は、地球物理学者になりたかったのですが(康代の前の文章に記載さています)、
今は、自分が心理という立ち位置にいられることに、感謝しています。
もう65歳となりましたので、これからは、後進の育成や、地域貢献、私の感覚で感じる真実を
皆さまと共有することに、全力を傾けて行きたいと思っております。
その際に、私を育ててくださっているのは、皆さまです。
皆さまの反応により、私は、自分の愚かさや、醜さ、足りないものを、知ることができます。
どうか、忌憚なく率直に、ご意見やご感想など、お伝えいただければ幸いです。
何卒、よろしくお願い申し上げます。
写真 父の大好きだった地 上高地カッパ橋



